先日調布で行われている大小島真木さんと辻陽介さんの作品展に行ってきました!
こっそり先行試写会に行くほどに心待ちにしていた映像作品を中心に諏訪の聖域を巡る、旅のようなインスタレーション。見応えずっしりです。

メインビジュアルにもなっている映像作品は古来より繰り広げらてきた生命の循環の物語を石と血、あるいは鹿と人を見立てにして、怪しくも美しい森の中で繰り広げられる映像作品。
生きるために食うだけでなく、捕食された命に宿っていた何かをも受け継いで、その森は育まれているのかもしれない。かつて命とはそういった存在だったのかもしれないと考えたくなる物語でした。
そして演者はまさかの田中基さん!縄文のメドューサの筆者さんです。お顔を朱色に塗ってコムアイさんとの怪演。やばかったです。

映像や立体作品も素晴らしかったですが一番見入ってしまったのが入ってすぐの映像作品。
フォッサマグナや境界、刺青、あるいは大泉門や胞衣など、本当に様々な観点から諏訪を中心に物語は渦を巻き、少し散歩して帰るはずが、いつの間にか深い森の中に迷い込んでしまったような気持ちになりました。
ちなみに辻さんが主催されているdozineが本当にやばく、あまりウェブメディアの記事を読まない自分が取り憑かれたようには読み漁り、はまっています。かなりエグい記事もありますが興味のある方はぜひ。

新生児の顔を眺めていると、今まで命や魂、我々がどこから来てどこに行くのか、そういったことを考えたりすることが多かったのですが、抽象的な形ではなく、より身近な、すぐそこにある螺旋状の何かとして感じられるようになった気がします。
予定より早く生まれてくること、その魂はどこからきていつから宿っているのか、そしてなぜこの循環は尽きることなく続いていくのか。
先日母親をリハビリのプールまで車で送っていると、ふと、知ってる?人間は息を吐いて生まれ、息を吸いながら死んでいくんだって。と語っていました。

仏教や神道ともまた違う、言葉ではなく感覚で、森や石や鹿と対話できていた時代が我々にはあったのか。
作品を見て深い森の中の循環を考えることと新生児の寝顔を見つめることは不思議と余韻の波長が似ているようにも思えました。

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