少し前の週末、裏原宿にて砂曼荼羅という不思議な組み合わせのイベントに行ってきました。
言葉の響きが持つ聖と俗の隔たりの大きさたるや。

こちらは写真家、アンディチャオさんの方の展示会場で、展示開催期間の四日間の間、チベット密教の僧ソナム・ギャルツォさんが時間をかけて無から砂で曼荼羅を描いていくものなのです。素晴らしい。

正直、この極彩色、幾何学模様の美しい円、曼荼羅の意味を理解しているのかと言われたらわかりませんと答えざるをえないのですが、カーラチャクラの曼荼羅だという説明していただきました。
時間を意味するカーラとチ存在を意味するチャクラ。ダライラマの説法が行われる大きな集会もカーラチャクラ灌頂などと呼ばれているように記憶しています。これらの関係性、そして密教の真髄がそこにあると聞きましたが。。学びたいこと多いです。

本来もっと大掛かりなものであるこの曼荼羅、今回は身口意で三位一体の曼荼羅から意、すなわち心の部分を描いたものになるということでした。そう認識して見させてもらいました。間違っていたらすみません。。

それにしてもここは人里離れた山奥でも、荘厳な僧院でもなく原宿裏通りのイベント会場。
クレープ屋さんやsupremeに行列を作る若者、謎に満ちた枯れた盆栽などを眺めているととんでもない道間違いを犯してしまったのではないかとドキドキします。

誰一人知り合いがいない会場にえいやと乗り込むのは少し勇気がいりましたが、とてもアットホームな会場の雰囲気。それでも曼荼羅と向き合うお坊さんの周りはやはり空気が違います。

最終日、着いた時には曼荼羅はもう最後の輪郭部分にまで描かれていました。
破壇の儀、すなわち完成した曼荼羅を壊す時間が迫っても一切手を抜かず梵字の様な紋様に砂を丁寧に彩っていく姿が印象に残っています。

ついに完成!

完成を祝して、余興。そしてお祈りを捧げ、破檀。

一気にかき混ぜるのではなく、最初は要所の様な場所の砂を少しづつ摘み、やがて円周に沿って指でなぞるように線を入れていく。
そして中心に向かい一直線に砂をかきあげる。

そこからはあっという間。諸行は無常であり、無常であるからこそ諸行には存在の意味があるのか。
誰もが毎日を生き、それぞれの曼荼羅の様なものを描く日常。やがて破檀の時が訪れると知っていても僕らは皆、砂を落とし続ける。その意味について考えることの意味。
ここで使われた砂をいただき眺めると色々と感じ、考えることが多いです。

素晴らしい体験に感謝。
いつかヒマラヤの麓でその曼荼羅の意味を改めて問う様な出会いがあるように。

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