ちょうど一年前。新潟は越後妻有の大地の芸術祭に遊びに来ていました。

もう何度目になりますでしょうか。
初めての芸術祭、初めての越後妻有。最初に訪れた時の印象がとても鮮烈でこんなにも面白く、好奇心を刺激する場があるのかと驚き、広域な地域の隅から隅まで余す所なく全てを見てやろうと鼻息荒くなったことを覚えています。
やがて、ジェームズタレルなどの大型の作品は3年に一度の会期の毎に更新されるわけではなく常設として保存され、素晴らしい作品がいつでも見れる、それは素晴らしいことではあるのですがやはり既視を感じてしまうこともまた正直な気持ちでもあるのです。

作品の回りかたも小慣れてくると閉館時間が早いものから作業的に回っていくのですが、閉館時間が過ぎても屋外の作品はそのまま見れたりするのです。
時間ギリギリ訪れた、最後の作品は椛田ちひろさんのゆく水の家。
在りし日の里山の気配が忘れ去られた山奥の小屋の中で静かに思い出を語り出すような作品でした。

閉館時間を迎えてから日が暮れるまでの僅かな時間。言わばロスタイムのような狭間の時にできることはないのか。いつもソワソワします。
今回はエリア的に割と近い松之山方面、キョロロ近くの森で以前よりファンのボルダンスキー氏の展示があるようなので、せっかくだからくらいの気持ちで訪れたのですが、これがえらいことになっていました。

子供たち向けのわんぱくな展示をしていることの多いエリアならではの拡大した昆虫のパネルを超えていくと。。

気配!

視線!!

後ろ!!!

すごいところに迷い込んでしまった。。
ボルダンスキーの遺作ともなった作品。
不穏なだけでなく、物音ひとつしない森の中でこの視線とずっと対峙していると、そもそも気配、あるいは意識とは何だろうと考えるようになりました。
ゼロなはずなのに漂っている、あるいは感じるということは何なのか。オカルトとしてではなく、当たり前のように脳が認知しているこの世界。認識と存在は必ずしもイコールではないと改めて思う。
虫の鳴き声と木々の揺らぎ。僕も森の中に溶けていきそうな時間でした。

最後にイリヤ&エミリア・カバコフ 手をたずさえる塔を見学。
この塔の上部はその時世界でどういったことが起きたかで光のライトアップの色が変わるようになっているそうです。今、ウクライナ侵攻が終わるまでは悲しみの意を込めた青の中に黄色の光が灯るそうです。

そして、里山の日も完全に沈みました。この日はさらに北を目指し車中泊、お盆の新潟の旅を続けました。
また記憶を掘り起こしレポートさせてもらおうと思っています。

 

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