色々あった五島列島旅。絶景、そして食や人。さまざまな魅力が煌めくような島旅ですが、やはり避けて通れない大きな特徴が教会文化ではないでしょうか。
それはとても悲惨で苦痛に満ちた歴史。学校で学んだザビエルから天草四郎、出島。歴史の中の目を背けたくなるようなキリシタンの迫害の歴史。
そしてやがて江戸の終わりから明治大正になっていく頃、いつの間にかそれは太宰や芥川、遠藤周作と文学の中からキリスト教が再び教科書に現れるようになります。

子供の頃から思う疑問。なぜ信者の方はその場凌ぎでとりあえず踏み絵を踏むことはできなかったのか。信者でもない自分に理解できることはわずかかもしれませんが、それを少しでも理解したいと、時を超えてその場に身を置き感じてみたい。
歴史の大きな流れではなくもっと個人個人と神さまの関係性、信仰とは、不条理との向き合い方、そして赦しや愛とは何なのか知りたい。
無宗教で信心を持たない自分だから、形なきものを信じられる力について考えたい、そう思うようになりました。

さて五島列島の旅、いきなり最終日ですが福江から隣の小さな島、久賀島へ。
念願の旧五輪教会は船に乗り、電気自動車に乗ってはるばる訪れた価値あり。沈黙とすら形容できるほどの静けさの森の中。
地獄を見てきた人々が渚に建てた小さな教会、僕は天国を訪問したことはないのですが、そこはまさに楽園のような場所でした。

静かにそよぐ初夏の風、遠くのさざなみと海鳥の声。
しかし、かつてここで確かに地獄が溢れた。

本当に静かで、綺麗な海でした。

一度福江に戻りそこから長崎へ。海から海へ。かつて宣教師が渡った海を超えて。

三日間島に滞在しただけなのに、長崎の喧騒に目を回す。途切れることのない車に路面電車。おしゃれなカフェ。
飛行機までの時間は思ったよりも少なく、一箇所しか滞在できなさそう。選んだ場所は日本人二十六人記念館です。

欧州からどのように宣教師がやってきたのか、そして踏み絵など日本のキリシタンが歩んだ苦悩の歴史。
そして今もなお教会がカトリックの人々の心の拠り所になっていることを展示を通して知ることができました。

自分の母親が聖書を朗読する会みたいなのに昔参加していたこともあって、どこかキリスト教に苦手意識を持っていた子供の頃。
宗教が人生に、あるいは人生が終わった後にどのような喜びや救いを与えてくれるのかはまだわかりませんが、
半生で出会った信者さんやお話伺った関係者の方本当に素晴らしい方ばかりです。まずそこを見習いたい。
自分なりに思うこと、これは他の宗教にも言えることですが、この世界は今の人生で終わりではなく死後も場所を変え物語が進んでいくのならば、たとえば今この瞬間は試されている一時的な時間だとしたら。
どのような尺度で生きるということを俯瞰するのか、永遠を意識するのならば大切にしなくてはいけないことは自ずと変化していくのかもしれません。
まだまだわからないことばかり。勉強していきたいと思いました。

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