chpusou02先日息子君のはじめての旅を御一緒させてもらった店長ですが、ふと人生最後の旅とはなんだろう、そんなはかない問いが頭にほわっとやってくることがあります。
若かりし頃は、人間どうせいつか絶命するなら旅の空の下がいいかもとか思っていましたが、なかなかそうとんがった事ばかりを言っているわけにもいかなくなったり。アダルトにはアダルトの事情があるのです。
人生最後という枠からは数日飛び出してしまう事になってしまうと思うのですが、いわゆる死の暗喩としての旅立ちともまた少し違う、空の旅をご紹介させてもらえたらと思います。
少しグロテスクに感じられる画像もあるかもしれないのでそういうのが苦手な方は御遠慮う下さいまし。
314_001去年訪れたラルンガルゴンパ。谷の中腹の広場を酸素不足の千鳥足でふらふら歩いていると客引きのおっさんにしきりに声をかけられます。
ティンブトーンと伝えるとおっさんは妖しげな笑みを浮かべ天葬と書かれたメモを僕に。これ即ち噂に聞くチベットの葬儀方法、鳥葬のことではとひらめきました。

遺族の方もいる中、喪に服すべき場を好奇心で訪れていいものなのだろうか。そんな葛藤もありましたがエゴイスティックな好奇心にあがらえず郊外の鳥葬所まで連れて行ってもらうことになりました。
chousou09見渡す限りの荒野。ふと空を見上げると大空を優雅に舞う鳥の姿が。
この時は遠近感がよくわからず大きめのカラスサイズだと思っていたのでしたが。。
319_003天葬テーマパーク建設中でした。メキシコのピラミッドやら死を司る世界遺産的な名所を模した安っぽく下品なはりぼて。
好奇心で訪れている僕が言うのもなんですが古くからこの場所で葬儀を行ってきた地元の人々への敬意も欠いているし、死に対する侮辱だと思うのです。
見世物に堕とされ本質は失われ、鳥が死肉を食らうという野蛮な行為を見学に来る文明の恩恵を受ける人々。そういった下衆な振る舞いが似合わない澄み切った青空の下なのに。
325_002いつの間にか集まった結構な人だかり、現地の方もおやつとかつまみながら和やかな雰囲気で和気藹々。ヤクものんびりと草を食べたりしています。
厳粛な雰囲気を想像していたので少し肩の力抜けました。
chousou031確かに日本でも御近所でお葬式がある時そこまで皆さん緊張感張り詰めることはあまりない、そういうことなのかもしれません。しばしヤクと戯れます。
370_008ふと足元を見るとタルチョ。どこからか風に乗ってきたのでしょうか。
chousou11近くにお寺でもあるのかなと少し高台の方に上ると見渡す限りの布がしきつめられた丘に辿り着きました。
chousou10圧巻のスケール。詰め込み過ぎたスケジュールと高山病でどこかもやがかかったような今回の旅でしたが、この瞬間その霧が晴れて、凄い所に来ておるぞと閃いたように感じたのを覚えています。
人の影は一切なく、風の音だけが支配する丘。いつの間にかぽっくり逝ってあの空を舞っていた鳥についばまれて浄土に来てしまったのではと訝しむほど僕の知っている世界とはかけ離れた風景でした。
325_003タルチョの世界から離れ再び鳥葬の場へ。空を見上げてぶったまげました。
いつの間にかとんでもない数の鳥が。
chousou02制空権だけでなく丘の上にも次々と降り立ってきます。そしてようやく気づきましたがその一匹一匹がカラスどころか超猛禽。
近づいても避けて飛び立つことなく一瞥くれる鳥。
この地では人と鳥の生態系のサイクルは逆。思い上がりを見透かすような捕食者の瞳。
chousou08丘の下の方に天幕がひかれ、派手な衣装を着た呪術者のような人が準備を粛々と進めていきます。
にじりにじりと近寄ってくる鳥の大群。奇声をあげその大軍をなだめる執行者の一団。
chousou06準備が整った、と言うよりは鳥の制御が限界に達した、そんなタイミングで天幕が下されました。
ある者は岳を駆けおり、ある者は空から急降下して鳥葬台の中心、即ち遺体を目指して一気に群がります。
chousou05カタストロフィ。念仏を唱える時間も、諸行無常を感じる余韻も、そんなものは何もありませんでした。
ひたすら圧倒的な喧噪と土埃。鳥の群れが黒い渦になって、そこに人がいた形跡を残さず消し去っていく様は僕の勝手にイメージしていた葬儀の風景とは大きく異なっていて、ただひたすら呆気にとられてしまいました。
chousou02迫力は予想以上でしたが、死とその先について考えたり感じたりすることはできず、少し悶々としてミニバンに戻る途中食事を終え再び大空に戻っていく鳥の影を目にしました。
chousou01チベット仏教の教えや考え方は正直知識がほとんどなく、単純に薪にする灌木の不足や微生物が繁殖しにくい土壌が理由で鳥葬という方法を取っているのかもしれません。

それでもやはり魂や肉体が大空を舞う鳥の血肉になり、そしていつかその鳥が大地に堕ち、再び生を育む、そんな来世への大きな旅に出る輪廻転生を象徴しているように感じられる鳥葬は大きな魅力を持っていて、どこか必然のようにすら感じてしまいました。
325_0037鳥の翼を借りて天寿を全うした後、再び旅に出るのか、あるいは息子やそのまた息子、家族や両親の側で静かに墓に入るのか。
生があるとまた死に関する自身の考え方も変わってくるものなのかもしれませんね。
願わくばなるべく悔いの無い人生を送り、笑顔で死を迎えられたらいいなと思うのでありました。

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