怒涛の和歌山旅、初日もついに夕暮れ。
熊野本宮から十津川温泉郷を経由して熊野の最深部、玉置神社を目指すことになりました。
以前にここを訪れた友人曰く、熊野の奥に呼ばれないと辿り着けないという不思議な神社があるんよと噂を聞きそれ以来ずっと気になっていた奥の宮へ向けて進んでいきます。
幻想的なストーリーじゃのう、なんて言いながらも携帯でGPSを見れちゃう時代。ま、ちょっと道がくねくねしているのかしらん、なんて軽い気持ちで夕方の山道を登っていくのですが、マジで着かない。奇妙なことを口にしますが、40分が40分でないと言いますか。。
スピってるんじゃねぇぞ!と怒られそうですが本当にそれは仙境のような、今同じ時代に存在するということが不思議な場なのです。

駐車場からの参道がまた長く、そして険しいのです。
その気配を写真に落とし込むことは難しいのですが、終始感じる違和感というかヒリヒリした感覚の一つとしてそこらじゅうに生えてる木のサイズがとんでもなく大きい。巨人の森、あるいは自分が小人になってしまったかのような不思議な気持ちで道を進んでいきます。

日が翳り、時間が進んでいくにつれ足取りも無意識にそそくさと。
神様がこの場にいる、あるいはこの場にいると定めた人がいる。自分以外の人間がいなくなり、一人の生き物として圧倒的な気配に満ちた山と対峙した時に感じる気持ちの中に大切なものがあるような気がします。

影がどんどん伸びてきて、やがてそれに包み込まれるように夜が始まる。

あれだけ不思議だった登山道、帰りは拍子抜けするほどにスルスルと。
山を降りると、ほとんど夜の静けさが波一つない湖にそのまま映し込まれていました。

ここから夜の山を走り続け高野山へ。
途中鹿に出会うような夜山を縫うように進んでいきます。
日も沈み暗闇すぎて、ここが山なのか谷なのか。

ようやく宿、そしてご飯。
高野山は以前にも何度か訪問している、言わずと知れた真言宗の総本山。自分の父の田舎から近いということもあって幼少期から幾度も訪れている大好きな場所。なんだか帰ってきたという不思議な気持ちに。

山であり町であり聖域でもある不思議な調和。信仰の場と市井の生活が溶け合う感覚は無宗教の島国でなく、どこか海外の小さな村のようです。

時刻は夜中なのですが休憩もそこそこに奥の院を散歩。
ここはいわゆる聖域であると同時に墓地なのですが、どういうわけかあまり恐ろしいという気持ちは芽生えず、灯籠に灯りがともっていることもありスルスルと歩いて行けます。
これが神社と寺院の差なのか、あるいは圧倒的な死に囲まれながらも、それが安らかであると感じることができるからなのか。

そもそも神様と仏様のスタンスの違いというか、恩恵と同時に畏怖の対象である森羅万象と人間を救うために遙か天界から救いをの手を差し伸べてくれる仏様。どっちも好きだけどお寺はなんだか優しいっす。。

弘法大師がおられるという奥の院までゆらゆら歩いて行き月を眺める。
こうして長い一日が終わっていったのでした。

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