数ヶ月前、山陰の旅の起点に選んだ街が広島でした。往路は空港で借りたレンタカーで一気に北上。帰りに少しだけ時間ができたので広島の市内、原爆ドームの周りを歩いてきました。

身の毛がよだった先日のレバノンの爆発の何倍もの衝撃の起点。
その後75年、様々な天災、人災がありましたがやはり別格の悪意、戦争。
当たり前のように皆が避けたいはずの殺し合いを何故我々はやめられないのか。

知らん人が何人不幸になろうが関係ないと思えるくらいの想像力の人、自分の国の領土が広がったとしてどんな恩恵や充実を感じるのでしょうか。
アメリカを抜いたとか、地球統一したとかしても、自分自身の今に幸福を感じられないような想像力では、どんなファシズムや帝国主義、全体主義の中にいても孤独や恨みを感じ続け、気がつくと満たされないまま人生を終えるのではないかと考えたりします。
こんなはずじゃなかった、そう思いたくないっすね。

やられたからやり返す、銃を制すために銃が必要。
本当に血に飢えた狂った輩なんて多分歴史の中にはほとんどいなくて、ほんの些細なはずの差別や負の感情がいつの間にか制御不能の悪魔に変わる。
それはきっと今のような感染症の中のような、自分が我慢しているのに、、なんて感じる時に生まれやすいものなのかもしれません。
己の中にも簡単に宿るであろう怯えや嫉妬といったダサい感情に打ち勝つために、周囲や社会が異なるイデオロギーを傷つけても構わないという風潮になった時に流されないために、旅を続け写真を撮り、人と会う日々を続けられたいいなと思う日でした。

ご冥福をお祈りします。

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