毎年春の訪れと共に楽しみにしているkyotographie。
一言で言うと京都で行われる写真の祭典なのですが、今年は仲良くしてもらっている吉田亮人さんがメインのコンテンツとして作品を展示しているという話を聞き一際大きな期待を胸に西に向かいました。
いつもと変わらぬ窮屈な夜行バスを降りるとそこは最後の葉桜。舞い続ける八重桜の花吹雪は初夏の訪れを告げていました。それにしてもこの街はいつ来ても揺らぎがない。
相変わらず溢れるほどの観光客と、そして彼らと交わるわけでも避けるわけでもなく独特の距離感で滑るように歩く地元の人々、そして彼等が交差する真ん中で凝り固まった身体をストレッチで伸ばしながら地図を見てキョロキョロと右往左往する自分。
思い出の深いこの街、いつも揺らいでいるのは僕の方です。
会場について一切の予備知識を持たずにふわっと訪れたのですがこれは正解だったのかもしれません。
かつて新風館と呼ばれた建物は廃墟ともまた違う、商業施設からホテルとして生まれ変わるその間の状態。一切の装飾を排除し構造部をむき出しにした、生まれ変わるまでの束の間の沈黙の時間。
遡ることさらに一週間、場所は東京、曳舟にあるREMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLDさん。魅力的なギャラリーであり、ワークショップの会場でもある場所で、偶然に吉田さんとお会いしました。
本当はその日に京都に展示見に行こうとしたのですが、その日ちょうどタイミング合わず、予定をずらし東京を巡るプランに変えた、まさにその日だったので驚きも大きかったです。
荒木経惟やメイプルソープといったお茶の間にもその名も響かせるメンバーの中に選ばれ、正直毎晩華やかなパーティーとかでシャンパン開けるような日々なのではといらぬ邪推をしていたのですが、なんと展示の合間を縫って今回のfalling leavesの本を作るためにわざわざ東京まで来て、一人で手製の本を作っている最中でした。
バングラデシュの革なめし工場Tannery、そしてその前の日干しレンガをテーマにしたBrick Yard。
いつも形として手元に残る写真のあり方、そして手作りにこだわって活動している吉田さんのこだわりと行動力、何よりも信念のようなものに僕は驚くばかりです。
技術や理屈を超えた何かが宿る作品に人は心を動かされるものだと改めて僕は思いました。

部数は111冊。従兄弟とおばあさんの年齢の和だそうです。
そしてkyotographie。
吉田さんの展示の名前はfalling leaves。これは僕も後から知ったのですがfallen leavesではないのですね。葉は落ち続けているのです。
吉田さんの従兄弟と祖父母が過ごした時間とその結末をどういう風に受け止めたらいいのかいいのか、僕には正直わかりませんでした。口にするような話でもないと思います。

一つ確かなのはこの物語は悲しい物語なんかではなく、命と命が寄り添うとはどういうことなのか、改めて人が生きていく上で一番大切にしなくてはいけないことについて教えてくれる物語だと思います。
僕の父は他界しているのですが、生前一緒に酒でも飲みに行こうみたいな話を一度もするもされたことはありませんでした。仲良くなかったということではないと思うのですが、きっかけをつかみ損ねたまま、といったところでしょうか。
人は誰でも突然死ぬけれど、故人を思い出す時に心の中では、口に出せなかったこと、たまには遊びに行こうぜといった誘いをいくらでも語ることができると思います。それは鮮明で雄弁で確かなものだと信じています。

個人的な体験や作品を通して、誰もが少なからず抱いている後悔を和らげ、やがて無に帰すことができるとしたら、写真が持つ思い出すという力の意義や意味もまた大きなもになるような気がしました。
ご興味のある方は是非京都に足を運んでみてください。

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