旅の中、祭りや寺院、ハレの舞台の彩として、時に信仰の対象として象と出会うことはそれほど珍しくなく、日本で鹿や馬を見る時くらいの感覚で接してきました。
しかし息子ちゃんに動物図鑑を見せて、いろいろな生き物とこの星を共存していますみたいなことをやんわり伝えていると、特別に興味を示すのがエレファント。
巨躯と異形の鼻、そして実際に触れ合ってみて一番印象的だったのが無垢な瞳。
親が子を見つめる視線をどこか思い出す慈愛。
でかいだけでない、人間の無垢な魂に訴えかける何かを備えた存在なのか。

そんな象さんに初めて会いに行くと自主的に思ったのですが、知識がなかったので軽いノリで背中乗れたりするものだと思っていました。触れ合う行為がストレスにならないようにと今ではその方法もいろいろ考えられたものになっていました。
少し値は張りましたが一緒に水浴びするとかそういったコースも。
悩み悩んで、選んだ道は最安のスクーターを借りて山奥にあるエレファントカフェで餌をあげるというもの。バナナと砂糖キビがこんもり入ったカゴが100バーツ。
いざ会食。

進化って無限の可能性があると息を呑む。
日本に初めて象がきたのは室町時代だとか。しかしそれ以前から帝釈天の乗り物として、あるいは麒麟や獅子と同じようにファンタジーの存在として。

うちの母型のおばあちゃんに少し似ているなと思うのでした。

鼻がピーンと伸びてシュルッとキャッチ。鼻息で吸引しているのかとも思っていましたがどうやら巻き付くスタイル。

山奥でバイクを停めて、名も知らぬ峠の茶屋でスプライトを飲みながら揺れる木漏れ日を見る時、旅の中にいるなと思うのでした。

山から降り、瞑想の寺ワットウモーンへ。
旅行者でも申請をすれば瞑想をすることができるというスリランカ様式のお寺とのこと。瞑想する心を誘う役割なのか、境内にはちょっとびっくりするくらいの鶏が鳩と共に繁殖しておりました。

トンネル状に繰り抜かれた通路を進むと仏様。
ここで何と向き合い、何を問い、何と折り合いをつけるのか。あるいは悟りに近い、私には想像もつかないような境地に至ることがあるのでしょうか。

境内の仏頭。雨季の終わりの木漏れ日を吸収して深い森の中で光と水が躍動しているように感じます。

考えることに囚われがちな自分が、久しぶりに感じることに身を委ねることができたように感じた、素敵な木漏れ日が気持ちいチェンマイのバイクドライブでした。

One thought on “象から鶏へ。チェンマイを駆ける”

  1. すばらしい旅であったことが分かりました!小さな春翠さんと、こんな良い経験を遠いインドの地チェンマイで出来たのですね。こちらにも、その空気に出会えた喜びのお裾分け!ありがとう!
    ゾウさん、温かい瞳…人間の体に備わる無垢な魂に響く存在!そうなのでしょう…そういう「存在するだけで」魂やさしく揺さぶる、ってなんて凄いことでしょうね。

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