灼熱のコルカタの思い出をふと振り返ると必ず思い出す光景があります。コルカタを縦断するフーグリ川にかかるハウラー橋とその下に広がる花の市場。
彩りもさることながらどういった言葉を当てはめればいいのかわからないその匂い、臭い、強烈。
切り取られてなお溢れんばかりに芳しい生の気を放ち続ける花々、その端に捨てられ徐々に腐り分解され土に還っていくゴミ山、汗、糞尿、お香、ケミカル、そしてなぜかそこに宿る懐かしさや神々しさや。

我々が暮らす日常をふと見渡すと、そこは良くも悪くも無音、そして無臭ではあると思うのです。それは広域では都市の一部になる我々、自分自身から放たれる臭いも含めて。
嗅覚はもしかすると気配や雰囲気にも似たもので、臭いかいい匂いの二択ではなく、もっと多様な様々な意味や表現であったのかとも思うのでした。
もちろん自分はうるさいのも、もちろん臭いのも好きではないのですが。

それを消し静かに暮らす我々の在り方もまた一つの美徳であり秩序ではあると思うのです。しかしなぜか私は、野生を感じる剥き出しの嗅覚のダイナミズムに触れると一匹の虫のようについついインドに引き寄せられてしまうのでした。

この花市場には溢れかえる活気のすぐ横に静寂に満ちたガートがあるのです。この極端の聖と俗、インドっぽく大好きです。
出し抜いてやろうと欲望剥き出しで人間同士がぶつかり合う商いとは一線を画する、個人個人が生活をして、祈り、自分と向き合う。川の流れだけが摂理とも言えるアジールのような空間。

春翠さんを放牧するには色々不安も多い場所ではありましたが。僅かな瞬間でも自分の意志で、進みたい方向に歩いてくれて(歩いてないけど)嬉しい。

それにしても、この鉄骨100パーセント感が実によろしい。

この日は日曜日。いつもに比べたら、市のにぎわいは少し控えめだったのかもしれません。そして時は夕暮れ。
実はこの日正午頃に訪れたのですが、もう本当とんでもなく暑くて。日本の猛暑もびっくりの40度超え。これには春翠も抱っこ紐の中で横浜名物シウマイのように蒸されていていけません。一旦引いて出直してきた次第です。

写真をもっと撮りたい好奇心としっかりお父さんの狭間で揺れながら。

記憶には残らないだろうけれども。たまになんだったんだあれみたいな感じで、夢にでもみてくれたら嬉しいです。

2 thoughts on “花市場と河川敷のアジール”

  1. 寺本さん
    このタイトル『花市場と河川敷のアジール』にすべてが詰まっているのを感じました!そんな、写真と文!
    伝わる伝わる、、、

    なんてインドというところは、聖と俗が、境があるような、ないような、あまりにも側に、それらの極みのような場があるところなのでしょう。

    虫のように吸い寄せられる寺本さんの嗅覚、感じ取られる嗅覚と表現される様に、奥底にあるお心の真ん中は、ドームのように大きい感じがしました。

    太古も今も変わらず流れ続ける河は、思考を止めてしまいますよね。人の営みとずっとずっと共に、、、これからも…

    春翠君、夢のように知らないところで、その眠る嗅覚、聴覚が、特に働いて深いところへ記憶が沈んで行ったような気がします…

    逞しく、育ってね!

  2. 仕事で行ったニューデリー、ホテルの前に大きな木がありました。よく見ると大きな鳥が何羽も止まっていました、近くにインダス川があってそこで亡くなった人の肉を食べているという話を聞きました。
     日本で聞いたら「えーっ!」と素っ頓狂な声を上げますが、現地で聞いたら「ああ、そうですか」との返事をした覚えがあります。何かそれが自然と思うようになった自分がいました。

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