本当に久しぶりに夜行バス乗って行ってきましたkyotographie。
インバウンドで膨れ上がった外国の方もまだ見当たらない、夜と朝の狭間に定刻に到着するサクラ観光バス。いつも通り。
それにしても私、超速いリニアではなくてバスや鈍行以上、新幹線未満の何かが生まれないかと生ぬるい夢を見たりもするのですが、いかがなものなのでしょうか。
鉄道が空飛ぶ国内線より値段高いのは子供の頃よりどうも納得がいかないのですが、久しぶりの一人旅、そんなことはどうでもよくなり、四列シートも俺は一向に気にならないぜとすやすやと夢の中で高揚しています。
毎回モーニングも始まらない早朝の京都はまったり駅のマクドで行き先プランを考えたりするのですが月曜日、特に僕が訪れた日は特異点かってくらい色々お休みだと気がつきました。そしてそれはおそらく去年も、一昨年以前も同じことが起きていたようにもうっすらと思い出します。
やがて今年も開館までの時間を持て余した私は、早朝からやっている本願寺さんにふらふら歩き始めるのです。
勤行を眺める。早朝。
深い言葉をいただきます。しかし、だとしたら、我々はどう生きたら良いのか。
ようやく街が動き出す頃。芸術祭の会場も始まりを迎えます。
kyotographieの拠点は八竹庵。京都の粋や雅を集めたような素敵なお屋敷。
いつかギャラリーではなくこういった場所で自分も展示をしてみたいものです。
2階では紛争と虐殺の中心地ではなく、人々が暮らす土地としてのパレスチナの展示。
いわゆる額装して横一列に並べる展示ではなく、その場に足を踏み入れた瞬間に鑑賞者自身やその視点も含めて表現の一部、あるいは何かの見立てになっている、そんな展示が続きます。
しかし逆に情報を遮断し、逆に横一列に並ぶミニマムな写真展が奥深い俳句のように感じる思いも最近は芽生えてきました。何がいいという答えのない表現の問いは作家さんも鑑賞者さんも自分自身が今、人生の中でどういう場にいるのかが大きく影響してくるのかとも思ったりしました。
メインプログラムの中でも圧倒的な存在、規模感のJR氏の展示。
京都で暮らす市井の人々をコラージュした作品。ご存知の方も多いと思いますが、キャンバスは街!といったスケール感で、いつも想像よりも3、4層大きいスケールで度肝を抜きにきてくれます。
今回圧巻だったのが会場の工場の空間をうまく使ったインステレーション。ねぶたのような迫力。
先ほどのコラージュ、あるいはねぶたのような展示方法、そしてこのミッドセンチュリーさながらのアメリカの幸せそうなダイニングが突然会場に現れる展示空間。展示方法だけでなく、写真そのものの撮影方法も新しい手法が続きます。
リー・シュルマン & オマー・ヴィクター・ディオプの作品はデジタル加工で有色人種である作家が白人ばかりのコミュニティの中に入り込みそこで浮かび上がる違和感のようなものを掬い取る作品。逆説的に語りかける社会の構造の異質さ。
AIの出現によってデジタル化は加速し、そこにあるものだけが写るという前提は過去のものになってしまった今、写真であるからできることは何なのだろうと考えさせれらました。
僕は自分自身が見ることのできたメインプログラムの中では自身の髪の毛を使い表現するレティシア・キイさん、
過去の記憶を継承する層として存在する土の中に写真を埋める、あるいは自身で漉いた和紙にその土地で躍動する命を写した吉田多麻希さんの展示が感銘を受けました。
しかし今年は二条城の展示もなく(全く別の企画としてアンゼルム・キーファーの展示)、京都文化博物館や京都市博物館、堀川御池ギャラリーもお休みで少し寂しい印象も。
とはいえ一日頭の中を写真のことで一杯にしながら春の京都を歩く時間はいつになっても自分にとっては楽しいものです。メインプログラムでなくてもいつか何か携われるように頑張りたいなと思いつつ、再び夜行バスに乗り込みうつらうつらしながら帰路に着くのでありました。