お店のカレーとは関係のない話で恐縮ですが、29日から展示する写真をぼちぼちとfacebookのイベントページにあげたりしていたのですが、こちらでも少しまとめさせてもらおうかと思います。

怪しいだけで意味不明で終わらないように何かできることはないか、こちらで展示の意図や解説などを少しでもできたらいいなと思いました。
野暮ったくならないようにいい塩梅探していきます。
初めてのことが多く非常に緊張しますが、一生懸命頑張ります!ぜひ遊びにいらしてください。

写真は佐渡の最北部、二ツ亀近くの賽の河原に流れ着いていた大陸のヘルメット。ここで大量の漂着物に出会った時に何か撮り溜めて作品にしたいなと思いました。
いわゆるゴミなのですが、潮騒の中、綺麗な花が咲き乱れていて、海を越えた先にこんな天国のような世界に辿り着くとは思っていなかっただろうなと感じたことを覚えています。

福岡の北部、博多湾を形成するにゅっと突き出した半島に志賀島があります。島に鎮座する志賀神社には鹿角庫と呼ばれる場所がありそこには一万本とも言われる鹿の角が奉納、貯蔵されているそうです。
元々、神功皇后が三韓征伐の際に戦勝を祈願したことがはじまり言われる角奉納。何かに勝つために角切られるのは鹿にとってはいい迷惑なのではと思ったりもしましたが。
それにしても1万はヤバいです。ずっと見ていると何見ているんだかわからなくなってきます。
少し離れて対馬の海で鹿の角を拾ったことがあります。
鹿というとなんだか山の動物のイメージがありましたが、五島列島の鹿は海を泳いで島を行き来するという話を聞きました。
今よりも鹿の数が多かった時代、島から島へ移動する鹿の姿はもっと自然なものだったのかもしれません。
海の神様を祀る神社に鹿の角が祀られているのも、そう思うと違和感がないように思えました。

玄界灘の鹿の角だけでなく、海岸で拾った漂流物もいくつか展示会場に置かせてもらおうと思います。
ちなみにこの島では教科書にも出てくる金印もひょっこり見つかったとか。海岸線探索にはロマンがありますね。

先日、終戦記念日。そして昨日、横浜にも台風がやって来ました。
太平洋戦争よりさらに遡り、今から750年前。時代は鎌倉時代末期、元寇とそれを退けたとされる神風、即ち台風。
勉強不足の僕はラッキーが重なったことでフビライ率いる元の軍勢は台風で撃退。文永の役、弘安の役、結果2回ともノーダメージで終戦を迎えたと思っていました。
しかし、九州より大陸側にある対馬、壱岐では奇跡は起こらずに悲惨極まる襲撃を受けたそうです。
僕が漂着物が多いと聞いて訪れた対馬の佐須浦が元寇の舞台だったとは現地に着くまで知らなかったです。30,000対80と言われる絶望の中、最後まで奮戦した英雄を讃える神社。太平洋戦争の時のものでしょうか。境内に弾薬が奉納されていたことが印象的でした。

戦争はなくなるべきだ。しかし抑止力持たずしてどのようにこの東アジアでやっていくつもりなんだい。本当に難しいこの問題。今時他国に迷惑かけて攻め込むということを本気で考える愚者がいるのかよと思っていましたが、本当に小さな欲望や恐怖による大義のため常に戦後であり戦前であるような情勢、そして本当に思っていることを大きな声で言いにくい空気。
元寇は日本が勝ったのかもしれないけれど小さな島に残された傷跡はあまりに深く、憎しみが消えるまでどれほどの時間を要するのか。また台風で隅の底の沈んだ大陸の方にも家族や恋人がいたでしょう。特に高麗の人は強引に連れてこられこの戦いに参加していたという話を聞きます。

消えないもの。僕が誰か大切な人を戦争で失うことがあったら復讐を胸に誓うのでしょうか。
海岸線を歩いていると漂着物だけでなく、人の心の傷や戦争に向かうことでしか解決方法を見出せない愚かさもまた、数百年の時間を経てもこびりついて消えないものなのでしょうか。

蛇足ですがこの海岸で金庫を発見。こっそり開けてみようと思いましたがびくともしませんでした。

途方もない広さを旅して伝承を残してきた比丘尼。
さまざまな伝承が残っていますが最後の入滅の地は福井県の小浜、空印寺の洞窟であるというところは共通しているようです。
そんな空印寺の住職、とても優しく、怪しさしかないような自分がぬっと現れて、人魚や不老不死についてお話をお伺いしたいのですが。。と頭わいているのかと訝しむような訪問をするにも関わらず、丁寧に日本中に広がる比丘尼の軌跡をまとめた研究資料など見せていただきました。
とてもありがたく、興味深いお話しばかりでした。
それにしてもなぜこんな話が日本中に流布したのか。
なぜ庚申の夜に人魚は現れ、そしてそれは誰が持ち込んだのか。
これは何かのメタファーとしての話なのか。
日本海沿岸の常世の国、竜宮城といった海の向こうにある世界はなぜ時の流れが我々の世界とは違うのか。
特に得られる教訓もないシュールで壮大な話にどんどんのめり込んでいったことを覚えています。
毎度蛇足ですが、空印寺の裏に神明神社?という小さな社があって、そちらも比丘尼にご縁のある場所とのことで訪れたのですが、ついた時には何もなかった地面に、帰る時ふと足元見ると奇妙な感じに石が規則的に置かれていて、なんだか怖くなって急いで石段降りて退散したこと覚えています。
ふかしでしょうか。オカルトでしょうか。この写真も飾る予定です笑。探してみてください。

最後は富山。湾になっている富山の海はとても静か美しかった記憶しています。象と鳥、それぞれの旅路の果てを祝福するような夕日が印象深かったです。
こちらの象は展示会場にも現れる予定です。

また富山には下田の大杉といって若狭を基点とした比丘尼の伝説が少しアレンジされ伝わってる場所があります。こういったアレンジは日本中に存在し、訪れる人も少ない伝承の残る小さな神社や植えたとされる杉や松を巡る旅を続けていました。
この巨大な杉を植えたのはお糸と言う名前の娘で36回もの結婚をした後、杉を植えこの地を離れどこかに消えたそうです。
曰く、この杉が生きている私もどこかで生きていますと。

比丘尼が植えた立派な杉は今も大きく佇んでいました。

 

 

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