新宿のオリンパスギャラリーで開催していた写真展、血と祈。
2週間に渡る会期を経て無事終了しました!
来てくださった方、気にしてくださった方、本当にありがとうございました。
室内4面あえて違うイメージの展示方法に挑戦してみたのですが、気に入ったぞと言ってくださる面がそれぞれ違って、写真表現にいい悪いはなく、好きか嫌いかでいいんだと改めて感じることができたことがなんだか嬉しかったです。
そしてバングラデシュ。色々あって3年越しのプロジェクトになりましたがやって良かったなぁとじんわり余韻に浸っています。
ここで満足せず、得た反省と経験を生かしてより良い展示、あるいは次の目標の製本ができたらと思っています。
もうすぐそこまで来ている2022年。ギャラリー以外の空間での展示、何より写真を撮りに行くということを目標に頑張りたいなと思います。
改めて、本当にありがとうございました。
展示風景の写真をいくつか。
イスラム教のイードという宗教行事。神様とアブラハムとその子イサク、旧約聖書の生贄を巡るエピソードから始まるお祭りは、今は富めるものが貧しきものに家畜を屠り、食事を振る前う一日となりました。
その日、列車は天井に人が溢れ、モスクでは祈りを捧げ、路上にて家畜は喉元に刃を入れられ供物となり、やがて食事になっていきます。
自分自身が毎日綺麗にパッケージされたお肉をカレーにしていく中で、その肉が宿していた血や魂について考えたいと思いバングラデシュに旅をして撮った写真となります。
今回の展示では祈りと犠牲、戒律と自由、集団と個人、体験と無関心などなど。それぞれ対になるイメージと、同時に相対的な関係、もう一方がいないと成り立たない相互の関係性を意識した展示になりました。
どっちがいい悪いではなく、光と影のようにそれぞれが存在する理由に意味がある存在であるということ。
また絵画の額を展示に使用しました。
あまりに大きなテーマではありますが命に色があるならば何色かと考え、世界中の人々が等しく尊いと考える特別な金色を使いたいと思い、コツコツ買い集めいてました。
一つ一つの額が独立した個性を持っていること。
いわゆる100gいくら、どこの部位の肉などの表記では読み取れない、父と母から遺伝子を受け継いで生まれてきた命であるということを改めて考えたいという思い。
あるいは何教、何人である前に一人一人の人間として出会った事への感謝。
そう言った思いを少しでも込めれたらと思いました。
モノクロの写真には血が流れる前と後、かわいそうと美味しそうの境界線を越えたイメージについて。
また最後の部分には近所の商店やハラル、日本でのイスラム。そして岡山県で訪れた鼻ぐり塚、田倉牛神社の写真を入れました。
どこの国とか何教ではなく、一人一人が命を食べ、やがて土に還り、大きな渦を描く世界について考えることは一人一人の意識、あるいは魂のあり方の問題であり課題であると改めて思いました。
また嬉しいことに行く塚のメディアにも掲載してもらいました。https://dot.asahi.com/dot/2021121400042.html?page=1&fbclid=IwAR3kWdvY0TkntPLT_-eMGlmUUCtt8vgcOyBJOr7xlAQWIAee9ocIIGwmZIY
最後になりましたが展示のステイトメントを載せさせてもらいます。
どうもありがとうございました。
多かれ少なかれ、人は命を奪い、その肉を食べることでしか自分の命を維持することができないし、その次の世代に遺伝子をつないでいくこともできない存在です。
そしてその命をつなぐ権利、生きる意味は当然人間だけのものではなく、森羅万象に生きるすべての命、家畜と名付けられた存在にも当たり前のように与えられたものだと思います。
弱肉強食の掟に効率という概念を持ち込み、そしてやがて殺生の負い目を感じることにも目を伏せるようになった我々。
早く、安く、そして印象良く。
しかし見えていなくても、あるいは意識していなくても、今日も我々は粛々と命を奪い、その肉によって命を繋いでいるのです。
僕が食べられる宿命を持ってこの世に生を受けたのだとしたら、それはとても辛く悲しいと思います。
しかし同時に全ての命は生まれた瞬間から死に向かってもいる。
だとしたら、生きる意味とは何なのか。
バングラデシュの首都ダッカでのイード。
喧騒と混乱が支配する街に訪れる祝福の日。
街の路地という路地で男たちは自らの手で家畜を屠り、そして身の回りの人々、あるいはそうでない人々、経済的な理由により食べることに困っている人にもその肉を振舞っていきます。
子供達は家畜が死ぬ前日まで彼らに餌をやり、その頬を撫で微笑みかけていました。
そしてイードの当日、泣き叫び家畜の命乞いをすることもなく、静かに、だけれどもしっかりと足を立ちにつけて自分の目でその姿を目に焼き付け、そして、その肉を食べる。
テレビやネットで情報として見る事とは根本的に違う、五感を通じて自分が当事者であることを理解する。
それはとても大切なことで、同時に我々が見失いつつあるもの。
僕は飲食店を経営しているので、普通の人よりも多くの食肉をその手で切り分け調理します。しかし忙しい毎日の中、グラムやキロ単位でビニールに包まれている存在に対して、命を頂いていると意識することは正直あまりありませんでした。
だけれども命が果てる瞬間、肉に変わる瞬間をその目で見た今。
彼等の命を消費するものではなく、身体に取り入れる存在に感じたいと僕は思います。肉となり、血となり、そして祈りとなる存在。
共に歩むことで彼等の魂は昇華され、やがて僕の生きる意味にもつながっていくと思いました。