お店の壁を使ってのスリランカ、インドの写真の展示ですが写真も少し増えました。
本来でしたらしっかりとした自分の解釈を伝える書類を作りたかったのですが、ありがたいことに、最近本当に本職の方が忙しく少しこの場を借りて何を思っているのか説明できたらと思います。
まず新しく増えた大きめのプリント、四隅の三枚ですが、それぞれの祈りの場です。
イデオロギーや宗教の違いや感情、利権や誤解もあると思います。
しかしそこで僕が感じた違いはそこで祀られている神様と教義であって、当たり前のように、人々が子や孫に託す想い、あるいは日常を慈しんで感謝する想いに違いはありませんでした。
こちらはキャンディの仏歯寺。
こちらは港町ゴールのヒンドゥ寺院。
由緒ある場所ですが内戦でだいぶヒンドゥ教徒は減ったねと教えてくれました。
それでも灯火に託す想いは今日も変わりません。
こちらはカタラガマ。ヒンドゥーの聖地でもあり同時に仏教の聖地でもある、特異点。
ムルガンとキリ・ヴィハーラ。
例えばエルサレム。一つの場所に二つ、あるいは複数の神聖が宿るということは必ずしもポジティブなことだけではないのかもしれません。

それでもこの場所であった青年に何を信じているんですかと聞いた時、父親がヒンドゥーで母親が仏教だから、どっちもになるのかなと笑って答えてくれたことが僕にとっては大きな光のように感じられました。
ちなみにこの場所は後述するヴェッダにとってもゆかりのある場所。
スリランカでは様々な民族や宗教の想いが交差し、そして暮らしているのです。
海峡や国境を隔てなく羽ばたく自由の象徴、鳥の群れ。
そしてラーマーヤナではジャターユという巨大な鳥が正義の味方として現れますが、インド側の鳥は鳩、スリランカ側の鳥はカラス。
英雄や頼もしい兵隊はは表裏一体の存在。
このイメージはハヌマーンに代表される猿にも強く感じました。単身敵地に乗り込みシータを探し出す英雄であり、街に火をつけ日常を焼き尽くす存在。
そしてこういった存在は、当たり前ですが、猿や鳥だけではないような気がします。
スリランカの先住民族ヴェッダ。中心の人物が長老になるのですが、狩猟を生活の中心にする彼等は野蛮な者とされ、仏教には帰依する存在、夜叉として日本でも知られています。

マヒャンガナという町の近郊のジャングルで暮らす彼等の生活は、観光客相手に弓矢を放つ姿を見せたりと、今はあまり本来の姿ではないように自分は感じました。

ラーマーヤナでは悪鬼の国として描かれるスリランカ。
ラーヴァナ、インドラジット、クンバカルナ。
報復の果てに弓で射抜かれて死ぬ存在。
ジャングルから町に戻り、バス停で出会った前を向かない不思議な男に出会いました。
野蛮な生活は捨てなさいと説き伏せられて、豊かなジャングルから町に出た森の民、現在を生きる夜叉の姿のように僕には見えました。
最後に、スリランカは長きにわたる内戦、仏教徒のシンハラとヒンドゥ教徒のタミル人との争いを終えたばかりなのですが、今はイスラム教徒とシンハラ人の間に深い溝ができています。
僕が訪れる前にも襲撃事件が起こり、国家非常事態宣言が出されました。

旅の中で出会った人々。中には友人と呼べる出会いもありました。
そんな中、少し過激な思想を持つ人々にも話を聞きました。
曰く、コロンボでのイスラム教徒の増え方は異常だ。この国を乗っ取ろうとしているに違いない。テロリストどもめ。
曰く、昔から住んでいるこの国で、いつだって政治やメディアは少数派をないがしろにする。多数派の多数派による多数派のための日常にはうんざりだ。

ただ皆口を揃えて言います。俺たちは仲良くしたいんだけどねと。
神話の時代から今、偉大なジャヤワルダナ氏の言葉を今一度反芻して、小さな島国が平和に暮らすあり方を僕も考えてみたいと思います。

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