長崎から大分、平戸から国東。果てから果てへ。
九州は想像していたよりも大きく、そして多様性に満ちているようです。
距離だけでなく、根付く文化もまた大きく変わりました。
教会から神社仏閣、それも僕がよく知る仏様とは少しタイプの違う、むき出しの石や樹がそのまま仏や神になったような荒々しさの中に宿る神秘。アニミズムの息遣い。

別府温泉に浸かり、初めてのエアビーに泊まる。
この民泊がまた強烈で、この道のわけがないという獣道を進んで行った先にある広場、そしてポツンと立つモンゴル式のテント。デビュー戦から相当強烈です。
目印を電話で聞くと、焚き火しているんでそこですとの答えにいささか面食らったのですが、オーナーさんは本当にいい人。聞けば地元は意外とご近所。
移住という選択肢について考え、そして実行する力。そしてこれから開拓していくという衝撃。
電気、水、そしてインカム。ライフライン、そして当たり前の事が当たり前でなくなることを苦悩とするのか喜びとするのか。いろいろ考える事ができました。

出発して間もなく、パンチの効いた鬼子母神、現る。

金色の、そしてぽっちゃりとしての存在感

スプレーで一気塗りしたようなキッズを従えて。



ちょうど修正鬼会が開催された翌朝の天然寺さん

川中不動は水の中。
古くは水害を鎮めたとされる摩崖仏

気配は水面下からやがて浮かび上がるように。


川魚だけでなく国東半島の石像もまた気配を消さない存在でした。


圧倒的な根と、やがて一体化してく大岩。
命あるものと無いものの境界線が消え、気配だけが色濃く残る森。


むき出しの仁王像を国東半島ではよく目にします。
僕の中での仁王様のイメージは木造。立派な山門の両脇、屋根のついた部屋の中で少しだけシミのように残る赤い染料と隆起した筋肉でした。
国東半島では野の中、森の中。
阿と呍、何かを守護するまま、その意思、気配だけ残してやがて砂になり、森に帰ってきのでしょうか。

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